FM-J録音失敗! Edit

 FM-J(エフエム上越)の午前11時〜12時枠で放送されている「情報クリップ」という番組で、「演劇工房じゅ★えん」が紹介された。11時40分ぐらいから5分程度の紹介枠であったが、座長の横田ことサトルと、演出の熊さんこと熊澤さんが出演。ほんとうは森さんも出演の予定であったのにぃ…。

 ジョルジオは徹夜でパンフレイアウトと「雨ニモマケズ」の群読原稿の作成、さらにそれに使う音源の作成などいろいろやっていたため、オンエアーの時間は自宅で倒れていた。それでも、きちんと居眠りしないでリアルタイムで二人の声を聴いた。サトルも熊さんもソフトムードで、いやー、やっぱりキャピキャピの森さんは必要でしたなー。

 なお、番組には、早朝に次のようなメールを出しておいた。

本日(2月21日)、「演劇工房じゅーえん」のメンバーがスタジオで大暴れすることと思います。なにせ、本日出演している座長からしてお祭り好きですので、リスナーのみなさん、お聞き苦しいところがあるかもしれませんが、勘弁してやってください。▼この劇団は、中越地震で被災した子どもたちに夢と希望を届けようと結成されました。『ケンジ先生』というめちゃくちゃ面白い芝居を上演します。学校や先生、それに、友達や家族の大切さが胸にしみる作品です。▼3歳から99歳までの、たくさんの子どもたちに見て頂きたいと思っています。よろしくお願いします! サトル〜、あんまりはしゃぎすぎるなよーッ!

 この「はしゃぎすぎるなよーッ」は「はしゃげよーッ」という意味であったのだが。

 かつてエアチェック少年であったジョルジオは、録音予約についてはまったく抜かりがなかった。しかし、何と、かつて海外放送マニア(BCL)であったにも関わらず、アンテナをきちんと伸ばすのを忘れていた。したがって、録音された音はいかにも聞きづらい。はるか遠方のFM曲を聴いている感じ。うむ、しかし、これはこれで雰囲気がなかなかいいぞ。だが、はっきり言うと「録音失敗」である。

 →雑音だらけの録音(MP3ファイル)

 ちなみに、本日の稽古はFM-Jのスタジオもある雁木通りプラザ。記念碑的通し稽古は、レッドチームが1時間45分、グリーンチームが1時間43分。演出の熊さん曰く、「理想的には1時間20分。しかし、1時間30分は必須なのだ。通すたびに2分ずつ短くなるとすると……」。

 そうそう、本日は『上越タイムス』の「NPOサポートセンター」のページでも、大々的に「演劇工房じゅ★えん」のことが紹介されていた。座長の横田サトルはじめ、積極的に関わってくれたメンバーに感謝!。

 ♪稽古不足を幕は待〜たない、資金不足も幕は待〜たない……


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群読用詩構成の暫定台本 Edit

 『ケンジ先生』終演後のプチ上演作品用の台本(暫定版ながら)何とか仕上げた。

 かねてより、終演後の舞台挨拶に引き続いて、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を、ジョルジオの構成で群読しようという提案が熊澤さんからあった。こちらの条件は、『ケンジ先生』のCDに収録されている「光降る朝」の合唱と組み合わせること。この歌を車の中で流しながら何度泣いたことか。

 「雨ニモマケズ」+「光降る朝」という組み合わせなら、もうそれだけでも十分であって、下手に手を加える必要はないとも言える。もっとも単純にやれば、「光降る朝」の前半コーラス、それに引き続いて、カラオケ版「光降る朝」にのせて「雨ニモマケズ」の朗読(群読)、そして、静かに「光降る朝」の後半コーラス。「雨ニモマケズ」を朗読したときの長さは、ほぼ「光降る朝」のワンコーラス分に相当する。

 だが、何かひとひねりがほしい。あんまりストレートに「雨ニモマケズ」を観客のみなさんにぶつけることはしたくない。それだと、何だか、舞台の上から「ガンバレ!ガンバレ!」と言っているような気がして、後ろめたさが残る。劇作品『ケンジ先生』が観る者に残す印象は必ずしも「ガンバレ!」ではない気がするのだ。もとより、あまり強いメッセージ性はぼく自身があまり好きではない。常にぶよぶよとしていたい。

 『ケンジ先生』というお芝居の魅力は、教師アンドロイド・ケンジ先生のチカラによって、登場人物たちが《善意》と《希望》へ導かれていくところにある。そのチカラは、ケンジ先生というアンドロイドのモデルである「宮澤賢治」に起因するはずだ。そこでひらめいた。アンドロイドではない、生身の人間的な宮澤賢治に登場してもらおう。劇中ではアンドロイドのケンジ先生を演じた役者に、終演後の群読では、生身の人間特有の不条理さや不可解さや曖昧さや漠然性を表現してもらおう。

 こういう意図で作ったのが、本日「暫定版」をメンバーに配布した群読用詩構成の台本である。ケンジ先生役の者は、宮澤賢治の三つの詩(「雲の信号」「林と思想」「曠原淑女」)から抜き出して配列した詩句を「せりふ」として読む。このせりふは、それ以外の役者が交互に(あるときは声を重ねて)朗読する「雨ニモマケズ」に割り込むことで、「雨ニモマケズ」が有する論理性や教条性に対して一定の「待った」をかける。「雨ニモマケズ」は二重に切り裂かれていく。

 「雨ニモマケズ」に割り込んで、それを切り裂く側の詩句が、複数・多重の声によって切り裂かれつつ読まれていく「雨ニモマケズ」の断片をつなぎ合わせる効果を聴き手に与えることができれば、群読としては大成功である。しかし、バラバラのままでも構わないと思っている。「光降る朝」のコーラスに移行したときに、聴き手の記憶の中にとどまった言葉の断片は、弱く強く、互いに引き寄せ合っていくはずだからである。

 今日は群読の練習をする時間がとれなかったが、稽古の合間や稽古後のミーティングの場を利用して、ケンジ先生役のサトルとチカには、「アンドロイドではない、生身の人間である宮澤賢治が、幻の中で語るようなせりふとして読んでもらいたい」と注文をつけた。また、それ以外の役者には、「けっして自分が演じる役のせりふとして読まないでほしい」とお願いした。「雨ニモマケズ」は、たとえ断片であっても、メンバー一人ひとりの「わたし自身の声」で読んでもらいたい。しかし、声はバラバラでも、意識はつなげること。「雨ニモマケズ」という作品がもつひとつの意味世界をきちんと構成すること。これなくして、群読の面白さはない。


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